Tsukemenpapaのブログ

アラフォー別居婚男性の頭の中

科学的バドミントンへの道

 二日間の熱い講義を受けました。興味のある、大好きなスポーツ医学の基礎科目。ただ、心臓や呼吸の生理学にはかなりの苦手意識がありました。最近バドミントンをしている時に「脈が上がりすぎる、呼吸をしていない気がする」の疑問がすんなりと解消。スポーツをしている時の生理学や、パフォーマンスを上げるために必要なトレーニングは分かりました。だけど、スポーツ中のケガを予防することはなかなか難しいようです。ヌマスッル先輩が体育館でアキレス腱をバチンと切った時、足を痛そうにしているのにプレイを続けようとしていたのを見て駆けつけて、車いすを準備させて救急外来へ案内した、これは正解だったようです。運動をしたらどうして元気になるか、が勉強できて良かったです。基礎の基礎を学んだだけなのでまだまだです。

 早速、この勉強をしたことを、「週末のめちゃイケおもしろかったんだけど、見た?」的な調子で、今日のバドミントン時パートナーに紹介しました。科学的知識はついたけど、バドミントンは不調でミスが多かったです。一週間で10度以上も気温が違った。。。

 講習、といえば中学・高校と単元ごとに5日間が定番でした。ツケメンは、本当に不真面目で中学3年生の「数列と漸化式」の先取り講習を全部出席した以外は、全部出席した講習はほとんどありませんでした。今となって、この親不孝を反省しているとともに、オテンバたちには是非とも自宅学習で乗り切って欲しいと思っています。ただ、講習に出席した単元、自分だったら「数列・漸化式・ベクトル」は非常に得意になりました。限られた得意技です。

 現役時代の直前の、センター試験英語対策の講習。永田塾の先生にコツを教えてもらって、だいぶ失点しないようになりました。真面目に通った最後の講習でした。

 予備校時代は、「友人たちが選択しているから」という理由で、化学石川先生の酸塩基平衡、他いっぱい取ったのですが、出ていないので全く思い出せません。

 大学受験の勉強を振り返ると、コツをつかむために「お気に入りの問題集」を何度も解くことで道が開けました。同級生で、鉄〇会に通っていた友達の化学・数学のテキスト、問題プリント、英単語帳、世界史ノート。運動会以降、成績が急降下し続けました。見かねた親友たちが救ってくれました。

 現役時代に、Z会が出版している化学の分厚い参考書を読破して、化学だけ得点源。1浪の時には新数学演習と大学への数学と問題プリントで得点源。日本一難しいと言われている駿台市谷のクラス分けテストを乗り切りました。ただ、新しく取り直した教科が足を引っ張ってグングンクラスが落ちていって、むしゃくしゃしていました。三角とびで壁を蹴破ったやばいやつ、で退学しました。あまり勉強しなかったなあ。

 一年に一科目ずつ自分で打ち込んで強化していった感じです。生物は教科書や新聞を読む程度。英語は、高校生の時に配られたイディオムの例文を全文和訳、Z会和文英訳を、1浪の山梨大に落ちた後から続けました。

 2浪になって自由ができた代わりにお金の制限があったので、自宅で通信添削も利用しながら英語と数学と化学が整ってきました。少し不安になって、交渉して代々木ゼミナールの世界史だけ選択させてもらいました。医学部志望なのに世界史選択、というチグハグさが自分らしさと思っていました。バイト先から講義を夜受けに行って、オギクボでプラプラしてから帰るフリーターでした。駄文

 勉強する秋。なかなかバドミントンができないなあ。1400字くらいツケメソ

 

変わらない、けど変わる旅

すごく心配だった、軽音楽部の同窓会的フェスティバルが終わった。

感想は、こういうお祭りって楽しいな。です。シンプル。熱くて暑くて、お一人倒れてしまったのが、大きな課題。異様な暑さ、演者には伝えられてましたが、その他に頭と気が回りませんでした。

リハーサルの時に、みんなの足元を見てエフェクターの勉強ができました。卒業して以来の後輩と再会できて、少し感動。誘った利用者さんもご家族と来てくれて感動。

 わたしたちは、学生くんたちにサポートドラムをお願いして、前日にようやく初めて全員集合して、曲の入り方だけを入念に確認したつもり。けど、ことどことく失敗しました。途中で電源供給がうまくいかなかったみたいで、ベースの音がどこかに飛んで行ってしまったけれど、楽しくコーラスが出来て良かった。ハイスタンダード。

。。。。。

 思い出話。中学3年生のちょうど今頃、夏休み。ヌマシウと「定期考査で8.0に届かなかったら坊主」を約束して、三角比の試験が意味不明で初めて青点を取って坊主になった夏休み。まだシャワーもない団地に住んでいた頃、地元の中学に進学して金髪・ピアスだらけになっていたスギヤマ君が遊びに来てくれました。その時、ベースとハイスタンダードのCDを持っていて「これ、かっこいいよ」で夢中になりました。その後、誰か忘れちゃったけど、メイキングビデオを貸してもらって夢中。中3から高1にかけてはとにかくいろいろな音楽を聴かされ、聴いたけど、結局ハイスタンダードとスピッツ男。ドラムをやることが決まってからは、スティックはドラマーと同じ、先っちょにチップがついていない太いやつ。破壊力抜群で、ライブハウスで使うと嫌われるスティックということを、後に知りました。

 大学に入って、歌うの楽しそうだな、目立ちたい、モテたい(papaだったけど)で始めたベースと歌。いつかはハイスタンダードやりたい。これがまた歌いながらきちんと弾くのが難しい。4年生の時、そろそろできるかも、ということでメタル丸先輩を仲間に入れて、リストに一曲入れました。ステージの当日は、金曜日の夜の体育館。まだキャンパス内には喫煙所もあった時代。緊張してポカポカモクモク吸いまくって備えていたら、「のど悪なるからやめとけ」と怒られました。もっと緊張してビールをがばがば飲んで、「弾けなくなるからやめとけ」と怒られました。そして記憶をなくしてライブは終わっていました。

。。。。

というわけで、おじさんだけど、カッコ悪いかもしれないけど、念願のWait for the sun、Maximum overdrive。15年経って、ステージ前の節煙と節酒が出来るようになって、コンディションは良かったです。練習不足は、日ごろから続けないと解消できません。バドミントンは週2でこの1年間続けられて、膝を負傷してきた頃。指も喉も壊れるくらいにコツコツmake it workします。

あ。ドリンク作りながらずーっと手を振り続けてくれたライブハウスのお姉さんが良かったです。駄文

 1200字くらい ツケメソ

夏の思い出

 急に暑くなって、7月初めの平日夜練習で右ふくらはぎを肉離れしかけて、体調がいまひとつです。去年は何をしていたかというと、学部4年生の研究実習の追い込みと、専門医試験の追い込みと、博士論文の審査書類作成にひいひい言っていました。混乱した頭の中で書いた、研究費の書類はぐちゃぐちゃだったり空欄だらけで、ひどい点数でした。混乱した頭を冷やそうと、部活の夏合宿にフル参加して身体に鞭を打っていました。

 今年は、コツコツやる作戦で、宿題を少しずつやっているので頭はクールです。ただ、大学・病院関係者を集めて大騒ぎする夏のライブを、お友達が主催するので、参加が決まりました。ライブに出ることもスタジオに入ることも、スタジオ終わりのお寿司も大好きです。なんだけど、スタジオにはメンバーが集まらないし、メンバーが集まらないから学部生にサポートをお願いしているようだけれど、連絡がうまくいっていないみたいで、不安しかありません。

 ライブ。ピアノの発表会。逃げ出したくなるくらい、いつも緊張します。ライブは回数を重ねて、機材を少し使うようになって、「電源が抜けたらどうしよう。」「昔途中で右手が攣ったことあるな、今日は大丈夫かな」とえずく回数が増えています。

完璧を目指して弾くのに、ミスらなかったことは一度もありません。

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高校1年生の、停学明けてからのバンド活動は、こっそり再開しました。相方のベースの子と、二人で大塚のスタジオでリズム練習。リーダーやかんた君をびっくりさせられて、パワーアップできました。リズムが安定したんだと思います。

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今回はいつもの相方、阿部寛に似ている、ベストティーチャー賞なカレとは違うので、なかなか不安です。阿部寛似とも、二人でスタジオに行くことが数回あって、パワーアップしています。

バドミントンをするお友達には、人生折り返しに来ているから、趣味のエフォートも考えた方が良いと言われます。お友達はバドのためにクソ暑い夕方にランニングをして熱中症になる、根性系博士です。

確かにそうだよなあ、と思いつつ2年ぶりに家族でスポーツセンターに行ってバスケットをしたり、ムスタングベースの音が変なので少しエフェクトしたり、エレキギターの研究をしたり。3連休はバンド・バド・バドと学生の時のように適度に楽しんでいます。そして評判のよいギターアンプをポチっとして、家具がまったくない部屋は楽器や機材だらけになっていくのです。8月末に全医体的な大会にエントリーしました。久しぶりの、大きな試合です。楽しみ。

一つだけ辛いことは、不安を抱えてライブに出ること。けっこう苦痛に感じているのである。助けてハードマン。今夜もバドしちゃうけど。1100字くらい

信念をもつということ

 この世で恐ろしいことは色々あります。時代も変わり、根性でぶっ倒れるまでがんばるが許されない中効率化・収益アップなど無理難題が多いです。結局病院で働くと、自分の研究する時間を捻出するためには臨床の質を落とすか、睡眠時間や休憩時間を削って時間を捻出するか、根性を出すかの二択です。

 本当に恐ろしいのは、周りが「諦めているから」と研究をする時間を捻出しなくなることで、科学者としての終わりだと思います。多数決で流されることは洗脳に近いです。私はまだ40手前、研究では大きな成果を出せていないのが現状なので、科学者としてはこれからの生き方が非常に大事です。最近一か月は疲れて実験室にも行けないで、妄想夢芝居、研究費を捻出するための書類・作文にやっきになっていました。

 それぞれの職場・役職で果たすべきエフォートの優先順位はあると思いますが、博士になったんだから、死ぬまで研究をしないと18歳の自分にバカにされそうです。労働環境が悪いのは引き続き訴えながら、自分で道を切り開けるように自分の仕事を続ける必要があります。

 人文科学と自然科学をつなぐ医学にしがみつきたい。遺伝学は、未来に必要な知識ですが応用できるかは少し懐疑的です。 短文的週末 ツケメソ

エコっぽい活

 センターに異動して一か月。昔よりもリハ室が高層になって、病棟階層に近くなったため、エレベーター待ちを嫌って階段をよく使うようになりました。何だか部活みたいで、一日中走りっぱなし。少し体重が減りそうでしたが、それ以上に夜中にお腹が空くのが悩みです。昼はできるだけ糖質も摂るようにしていますが、時間がなくて納豆豆腐胸肉弁当をささっと平らげてまた階段トレーニング、否しごと。10年前なら帰り道にラーメンでも食べて帰りそうなところを、食欲がわかず帰宅。家で調理をしながら飲むと、だんだんと食欲がわいてきて、深夜にカロリーを補充。飲む時間も長くって、身体の疲労が抜けません。

 この季節は朝になると、体がウキウキして運動しに行きたくなったものでした。寝床を、日の当たらない北向きの部屋にしたせいか、7時頃まで微睡みます。慌ててミニトマトを頬張って、シャワーを浴びて特急に飛び乗る生活が続きました。

 夜のキッチンドランカー筋トレも、疲労がとれない理由かもしれません。バドミントンができない水曜日、仕事も捗らないので早々に帰宅。途中で外道ラーメンというハイカロリーなラーメンを、腹9分目くらいに満たして帰宅。

 禁じていた夜のラーメンを食べた「外道」が頭に残っているのか身体がびりびり痺れて、帰宅して、看護師さんに勧められたギルビイのジンも飲まずに布団へ。日課である両親への安否確認をさぼって、布団でスマホ。意味もなくスマホ。外道ですが、お気に入りの深夜ラジオの一節を、目を瞑って聞き入ったり、麻雀リーグの実況を聞きます。

 早朝の大地震のせいか、「外道の習慣2つ」のせいか、禁酒した効果は特に感じません。今日も「眠いなあ」と言いながら、さらに5分遅く起きて、シャワーは浴びず、特急に乗って少し小走り通勤。

 週末はマンションの臨時理事会。日曜の午後、バドミントン時間がなくなることが分かっていたので、前日の夜にスポーツセンターでバドミントン。相手も休日の勉強会参加・家事育児の合間を縫っての参加で疲労していました。

 鶏もも肉を多めに買って、ソテーして、カレーの余ったサフランライスで鶏ステーキ弁当。けど、何だか物足りなくて体によさそうなカップラーメンを購入。

梅雨のような5月。

バカじゃない、風邪をひく

 3年前の4月は頭と体をぐるぐるフル回転して、色んなことを思いつきました。自分の体に関しては、頭を使いすぎて所謂アドレナリンが出っぱなしで、夜心臓が締め付けられて苦しく、寝なきゃ血管は開放されないのに、眠れない。死ぬかもしれないと思いました。当時、実験に使っているネズミは、全身に感覚器が備わっている皮筋に覆われている、ことに注目して行動観察をしていました。自分の皮膚にも心臓へのフィードバックがあるかもしれないと思って、12誘導を取るようにサロンパスを張ったり、キネシオテープを張って諫めました。そうすると、うっ滞して硬結する箇所が体に表れてくるのが分かったので、そこにキネシオテープを張って自己予防。神経・血管・筋肉それぞれに弾性があったとしたら、とよく分からなくなって、眠って起きて散歩して、神経炎症の研究に戻りました。

 考えても結果が出るのは2年後、しかも大した雑誌に載ったわけでもないですが、人に迷惑をかけず、ジャブを打って自分が生きた記録を残します。

 12年前の4月もぐるぐるフル回転して、iPhone3Gのプレイリスト、ばらの花を流していいないと、曲が止まると心拍が止まる気がしました。この頃は少しinsaneだったように思います。この頃思いついたこととして、傑作だったのは「どうしてあくびがうつるか、見た刺激で脳幹が賦活化されて反射がおきる、一次反射だ」これは証明できません。

思い出の白いたい焼き

娘との思い出は、私の体調によって少々複雑なものになっています。

長女ユは、3歳、次女マが生まれるまでは私の学業のスケジュールに振り回されて育った。海辺の近くでなんとか保育園が見つかって、義母たちの手を借りながら(最初は保育園なんて、という時代錯誤な家だったのは内緒)0歳10か月から滑り込み入園。乳児さんクラスまでは良かったんだけど、幼児さんクラスになってから、私の病院実習が始まって「延長保育」「早朝保育」。環境が激変して長女はお友達を嚙みまくってました。幼児さんクラスになって2週目くらいに、当時の園長先生から「親の愛情が足りないから、お友達を噛みまくるんだと思う」と、延長保育ギリギリに間に合った私に説教。歯を食いしばって、ユにもにこにこで安全運転で帰りました。当時の日記はどこかにあるかもしれません。

その年の途中、次女マが生まれて、ユはさらに困惑していたかもしれません。保育参観や、ピアノのレッスン時に、耳を塞ぐことがありました。当時から、カン、で聴覚過敏から神経症圏を想定していましたが、見守りました。優勝目指して筋トレ・練習オジサンだったからです。

国家試験・卒業までは、自分で育児と勉強とバドミントン優勝を両立してみせる、と強がったのがいま思うと無茶でした。優勝からは程遠い成績、卒業試験は年越しまでオーバータイム。国家試験の勉強は一か月。保育園から帰る旧道沿いの白たい焼き屋でユとマと自転車を止めてモグモグタイム。すごく良い時間だったのですが、国家試験一週間前に、二人を乗せながら自転車を踏ん張れなくて転びました。国家試験はなんとか合格しましたが、すごく長い時間休みました。

長女はスクスクと育ち、次女は時々しか家事をしない私に反抗。次女がすごく癇癪で、距離感が大変でした。

私も手に職を少しだけつけて、大学院生になった時、ユはもう受験期。マと仲良くなって、二人で過ごす時間が増えました。

大学院生、平日は当直をすることが多かったのですが、当直がない火曜日。

水曜日に、7時50分くらいにエントランスにいるとマが大きなランドセルを背負っていて出会えました。一緒に小学校まで歩きました。段々と、高学年になってお友達が増えて、お友達の家までの登校。歩く距離は減りました。どんな話をしたかなあ、全然思い出せないです。ただ、元気?ユは元気?と毎回聞くようにしていたので、ユが元気じゃないときがあることも、察しました。

3歳の歳の差で、受験が落ち着いたらまた受験期が始まって、でもみんなでスポーツセンターで行く時間を作っていました。私は一人っ子だったので、娘二人と遊んで幸せでした。次女が中学に合格して、その夏を最後にみんなでスポーツすることはなくなりました。

色々と思い出して目が腫れたのでまたこんど