おそようございます。
少し忙しくなってきて、考えることをさぼっていました。
松坂大輔投手が、目標を失った球児たち、監督たちに対して
素敵な考えを発表していました。
私は西武ライオンズファンで、スーパーヒーローは秋山。清原。デストラーデ。
松坂投手が西武に来て、18番を背負ったので、開成の運動会の組Tシャツの背番号を
18番にしました。
本当は10か、11にしたかったんだけど、バンドのリズム隊・相方である天才ベーシストに先に取られちゃったし、彼は垂直跳びが1mも跳べて、170cmしかないのにダンクができていたので、譲りました。
尊敬する青くんは、もちろん1番です。
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開成は、進学校ですから、高3の夏まで部活ができるのは、硬式野球部だけでした。
彼らは、本当に練習量が大変で、運動会でも要職に就く人や、スウェーデンリレーの一走や、全学年リレーのアンカーを任される驚異的な身体能力・知能をもつ人々でした。
ですから、当然夏の甲子園予選には、皆で応援しに行きました。
確か、2001年の開成は3回くらい勝って、ベスト16決め。相手校は関東第一でした。
バドミントンでは、当時インターハイ4連覇をしていたり、まあ他の競技でも有名で、しかも同じAブロックにいる、目の上のでっかいでっかい瘤です。
炎天下の中、まさに手に汗握る攻防で、我らがアンダースローのピッチャーが、何とか4回までは無失点。応援も3塁側で、鼓舞鼓舞鼓舞。
ただ、5回以降は、微妙な守備の綻びが出て、一気に大量失点して、そのまま7回だったか、コールドゲームになりました。
とても悔しかったですが、我学年の応援団長オブくんと、一塁側にいた、初めて対した関東一高の応援団と、アドリブでエール交換をしました。最高でした。
それでも、その年、東東京から甲子園に行ったのは関東一高じゃなかったと思います。当時も、今も、紫色のアンダーシャツです。
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この応援で、学校行事が一区切りして、遅い夏休みが始まりました。
運動をつづけたかったので、Z会と永田塾をさぼって、フットサルとバスケばっかりしました。高田馬場とお茶の水には、リングのある公園がありました。ウマキとタハーラと見つけました。みんな浪人しました。
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どうしてこんなに応援にも夢中になれたかというと、
自身はラストチャンス、春の全国選抜大会の関東大会予選で、開成バド部史上初
都大会に出場出来て、日大桜ケ丘のエース複から、ハーバード君と組んで、1セット取れました。最後は私が狙われて負けて、最強のシングルス医科歯科くんに、回せませんでした。
高2の1月までで、部活に出るのは辞めて、最後に飛び級と黄色とはげうすしくんと春合宿に行って、キカワダに負けそうになって、ヒッチハイクをして帰りました。
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完全に高3の、5月の運動会モードです。恋愛も、勉強も辞めました。
数学を白紙で、グランドに抜け出し「あらゆるところにビデオカメラを仕掛ける」
というミッションに毎日コミットし、「視聴覚教室で編集作業をして中1・中3・高2・高3チーフに配る」というミッションに追われました。中3チーフとは仲良しでしたが、よく喧嘩しました。
そんな中、バレーボール部が、なんと関東大会に出場しました。
バレー部のレギュラーは、我が組にも沢山居て、皆運動会の要職でした。
運動会の1週間前に、都大会があって、皆ヘロヘロなのに、すごい集中して、確か5位抜けしたと聞いて、めちゃくちゃ感動しました。ライトの彼と、リベロの彼とは、毎年クイズ大会に一緒に出てました。
リベロの彼の豪邸で遊ぶのが、とても楽しみでした。
ツケメンパパが、池袋のつけめん屋に明るい理由は、そのためです。東側は、屯ちんしか知りません。
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そういった訳でございまして、死ぬまで走り続けないといけないので、
どうか今年の高校3年生は死ぬほど運動と勉強をして、
「コロナ世代だから戦闘力低いね、まあしょうがないね」
という偏見を撥ね返し、日本のリーダーになって欲しいと思います。
横浜高校が近いから、YCUを選んだ、というお話です。
後に金沢区大会で何度も何度もボコボコにされる、というのは今から14年ほど前の話。
ユが一人で手をつっこんで飯を食べて、お茶をこぼしまくって、毎日ツケメンパパに怒られていた頃です。
ツケメンパパ 拝 1873字