先のエントリーで、生真面目じゃなくなったヒストリーを記しました。
ただ、大学入学当初は、エンジンがかかって、生真面目モードだったので、
医学進学過程:所謂教養学部の前期は、とにかく沢山の講義を受講しました。
取りすぎて、どれが必要な単位なのかは良くわかりませんでした。
頑張って、朝遅刻せず、講義を聞く生活を一か月はつづけたと思います。
綺麗な先輩が沢山いる、という不純な理由で入部した水泳部で、練習中、練習後に浴びるように酒を飲み、バドミントン部は、6限まで講義を取れば、火曜の全学練習に参加できる。水曜は22時半頃まで自主練習をする、土曜に電車乗るのだるいなあ。
すぐに音を上げ頭を下げ、下宿生活を許してもらいました。
当時、親父は大阪の局長で単身赴任でしたから、相当経済難だったそうです。
その後、作ろうぜ婚をして、仕送りの額が倍になったことを、実家に帰るたびに親父は語ります。ありがとうございます。
脱線しました。
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下宿生活が始まってからは、急に、本当に、急に講義をサボるようになりました。
部屋で、友人数人を呼んで、あだち充を読んだりして、ぼーっと過ごしました。
飲み会も沢山やりました。イケてるメンズとかわいい女子と過ごしていたと思います。
結婚して、子持ちになっても、しょっちゅう1SLDKでパーティでした。
ただ、受験生活の時に、一緒に暮らしていた多発性骨髄腫のばっちゃんが、私がYCUに合格してほっとしたのか、急に容体が悪くなって、都立の大きな病院に入院になって、急に「もう緩和治療しかできません」と言われました。
秋のリーグ戦の前々日の、嵐の日に、ばっちゃんが死にました。9月の最終週の木曜日でした。
進学過程1年のおばかでは、呪文:ベルケイドを唱えられませんでした。手遅れだったのでしょう。
医バドがごちゃごちゃしていて、旭川の東医体前くらいから、ずーっと身体がだるくて、大学や体育館に行きにくくなっていました。
夏休み中は、毎日YCU学生相談室のカウンセリングに通っていました。美人なカウンセラーでした。
そんな不調と忌引きが重なって、首長竜先輩にばっちゃんのお通夜と葬式に出るので、リーグをお休みすると伝えました。
最弱レギュラーの私でしたから、居なくても、全学所属のいつも陽気なノッポな先輩と、尊敬する筋肉先輩が居たので残留できました。
居なくてもいいかも、という気持ちになり、ショックでした。
受験勉強中に一緒にごはんを食べたり、食事介助が必要になったり、段々弱って、ボケていくばっちゃんを見ていたけど、あんまり心の準備が出来ていなかったので、もっとショックでした。
国家試験を控えている従兄姉達は、お通夜だけ参加で、とても忙しそうでした。
おじさんの家で、御骨になったばっちゃんを見届けて。礼服を着替えました。
頑張って下宿に帰り、週明け、起きたら身体が鉛のように重くて、困りました。
つけ麺友達で、プチ反抗期の天才はげうすし君に電話しました。
「なんかさ、色々めんどくさくなってさ、大学に行きたくないかもしれないんだ」
そうしたら、英語が堪能な彼がこう言いました。
「ちょっとさ、イギリス行ってみない??」
バイトのお金では足りないので、お袋に頼み込み、お金を借りて、
10月下旬から3週間強の、イギリス旅行に行きました。遅い、遅い、夏休みです。
初めての海外旅行でした。
何で、イギリスになったかは、良く分かりませんでしたが、
世界史選択のツケメンパパは、ヨーロッパ史は好きでしたが、イギリスが何で強い国になったのか、良くわからなかったので、大陸の方が、本当は行きたかったです。
「ロココ式だか、ゴシック様式だかごっちゃになるけど、山川の教科書の挿し写真でさえ圧巻だった、トゲトゲしい、ケルン大聖堂に行ってみたい」
とは言わず、言いなりでした。最高のプランナーで感謝です。
イギリスは、教会・聖堂が点在し、通りに様々な文化が根付いた、すごい都市でした。
最北はエジンバラまで。
最初の5日、最後の5日はロンドン中心部。今後、詳しくこの旅行について振り返ります。
2004年の10月は、世界情勢がとっても不安定でした。
確か、前年にブッシュ政権でイラク戦争。各地で過激な闘争が起きていました。
捕まった日本人ツーリストがいた時期です。
さらに、ちょうど、渡英した日、中越地震が起きたと思います。
私が生まれた信州も大きく揺れたそうです。
ヒースロー空港に降り立ち、ジュード・ロウ一色の地下鉄の看板に出迎えられ、ロンドン市内に着いたら、「ノッティングヒルの恋人」のロケ地近くのホテルにチェックイン。
少し散歩をしましたが、なんと、オックスフォードストリートは全面封鎖。
パトカーのサイレンが鳴り響き、異様な雰囲気でした。
何があったかは、わかりませんでしたが、おそらく、テロ予告か何かがあったのでしょう。
そんな情勢不安だったので、近くのケンタッキーで最初の夕食を済ませた後、別行動。お袋と、大学の仲良しに、「安全に着いたけど、やばいよ」メールをしに、夜中の漫画喫茶みたいなところに1人で行きました。
当時はガラケーでしたから、ネットカフェが生命線でした。後半に滞在したユースホステルには、ネット環境の良いパソコンがありました。英語力がなくて、利用券をもらえませんでした。
一時間近く、ネットサーフィンをしたら、世界の状況がわかりました。
日本の地震のこと、日本人のツーリストがとんでもない状況になっていることを知りました。震えました。
ゆっくり歩いて水を買って帰ったら、はげうすし君は、鬼の形相で
「あと5分帰ってくるのが遅かったら、駐在大使に連絡するところだった」と注意されました。
ただ、仕入れたとんでもないニュースを教え、和解し、楽しい旅をつづけました。
次の日から、朝と夜は、ハイドパーク周辺の散歩をしました。食事は、封鎖が解かれたオックスフォードストリートを闊歩して、Sohoで中華三昧してから、色々なパブに行きました。
帰りの夜のハイドパークでは、毎日デモ行進でした。
私は、英語が全くわかりませんでしたが、外周を一時間くらい、一緒に練り歩きました。
非常に耳に残るメロディーに「なんちゃらなんちゃら、wanna be a fundamentalist」
これを、皆、口ずさんで歩いていました。ただ、歩いていました。
何に対する、デモ行進なのか、今でもわかりませんが、
皆慣れたもので、暴徒になる様子は、全くありませんでした。
見守る警官も、口ずさんでいるように見えました。
原理主義:wikipediaによれば、例えば聖書に関してだと、無謬(むびゅう)と言って、
聖書に書いてあることをすべて受け入れるということだそうです。
たとえ、現象として誤った記載があったとしても、無誤ではなく無謬として、受け入れるという意味です。
謬も、誤も英語だと、errorなんだけど、明確に違うそうです。
このびゅう「謬」という字は、とても興味深いです。
ごんべんが、にくづきにかわれば、「膠」にかわです。
私は、今、脳、脊髄にある膠な細胞をつきつめています。
謬だと、「あやまり」、ともすれば、悪いイメージです。
膠も、なんとなく、悪いイメージです。膠原病。膠が原因の病。
ただ、謬無くして、聖書の信仰が得られないように(自分の解釈)
膠も、神経組織には必要です。ニューロンの、支持細胞です。
何が言いたいか、と言うと人種差別に、一石を投じたいのです。
色々な人がおっしゃってますが、人種に差はあるのです。
その差を、相対すると、謬(誤りであったり、良い悪い・優劣の価値観、思想です)が生まれ、争います。
無謬が良いのです。
ツケメンパパ原理主義者の誕生です。自由が好き、とニュアンスはイコールです。
呑気に3週間も海外に行って、大学の体育の単位を落として、仮進級になった
伝説のバカの誕生、のお話です。
3278文字 ツケメンパパ 拝