おてんば電脳系のユが家族キャンプにも来れないほど体力が落っこちてしまって、「普通に働く」というのは計画をたてないと難しいと思っています。ツケメソは今、月に2~3回就労支援の会議に参加しているので、「やる気、元気」が合言葉。綿密なスケジュールをこなして、何度打ち合わせても、最初の予定通りに就労支援を卒業できる方は半分もいないようです。ただ、支援者と本人たちが粘り強く支援期間を延長すると、卒業できる方が多数派です。仕事につくためのピラミッド。就労準備5段階のフェーズ毎に必要な課題を、総合的に仕上げていくのが職業リハです。障害のある、なしに関わらずエッセンスがいっぱい詰まっています。
友人のSNSで、後輩のモチベーションを高めるために必要なこと、組織全体通してコミットできそうなこと、を主体的に考えているという最近の記事を見ました。特に、部活よりも打ち込んだことがない、という価値観の後輩に困惑するそうです。人それぞれの能力によって大きく違うと思いますが、仕事の達成感と、東京都団体ベスト16、東医体シングルスベスト16、科研費若手採択、その類とは異なります。日本の科学力を向上するために競争することはあるのかもしれません。結果として偉くなる、何位になるとか、何億助成される、ほにゃらら賞を受賞するとか、そういうことは、不純な動機。私はイグノーベル賞をとるとほらを吹きますが、大事なことは別にあります。
自分語りを始めてしまうと、宇宙1の運動会で、棒倒し優勝、バハチ優勝、総合優勝をすることに振り切って、自分なりにできることを考えました。選挙では選ばれませんでしたが、ビデオ監督になって、各組の競技を撮影して、話し合って、頭を使って、沢山運動をして目標通りに棒倒しもバハチも総合優勝もしました。自分のおかげとはこれっぽっちも思っていませんが、自分のできる仕事をしたと思いました。
スウェーデンリレーのアンカーなのに、バハチのウィニングランで疲れ果てて7位に順位を下げてしまうという失態はありました。4位のままだったら、リレーも優勝だったそうですが、狙っていなかったのと、リレーの優勝も目指したら体がもたなかったと思います。競技者や参加者としてだけでなく、高2の時から続けていたフィールドジャッジ団、応援団ももちろんありました。5月なのに稀にみる快晴・高温で、7位でも熱中症寸前で、フィールドジャッジをする直前まで本部で寝ていました。
競技者だけではないかかわりもあったようです。思い返すと、高1の時は倫理審議イインカイに参加していました。上級生の議論が激しくて、感心しました。議論の内容は全く覚えていませんが、何にも発言できなかったことは覚えています。中3の時は、準備イインカイに入って、高校生の膝サポーターのカウントをしたのを覚えています。確か委員長の仲が良かった先輩と、当日の昼に喧嘩をしたような気がします。苗字は忘れてしまいましたが、マサキ先輩というドラマーだった覚えがあります。
運動会シーズン、バンドとバドミントンをがんばるシーズン、マラソン大会を頑張る秋シーズン、ピアノの課題が辛かった高1の冬シーズン、センター試験で恥ずかしくない点数を取って東京大学合格を目指して英語と化学をお茶の水で頑張った受験シーズン、アルバイトも勉強もロクにしない学生生活でしたが、目標に向かって頑張る、過程が大事、をシンプルに感じとっていたようです。受験は非常に険しい道でしたが、過程が大事です。そのためには信念が必要です。
大学生活は、結婚生活とほとんどイコールでした。娘たちが毎日元気に成長するかどうかは夜が鍵を握ると思っていたので、毎日浅い眠りでした。大変だった思い出が2晩。
1歳半のユが苦しそうに激しく、時に力なく泣き続けたので近所の大きな共済病院の小児科の先生に電話をしたら、あなた親なんだから夜泣き位当然でしょ、って言われました。翌日は元気でしたが、とびひになったり、中耳炎を繰り返したり、あちこち病院にかかりました。
ユが3歳5か月、マが6か月の時。マが乳糖不耐症になってオムツ使用量が激増した1か月。ガリガリにはならなかったですが、かなり大変でした。平日はオムツ交換おじさん、土日はバドミントン、と本妻によく怒られました。しばらくして、落ち着いたある夏の夜。マがヒューヒュー言っている、と本妻が起きて、私はなんだか苦しそう。としか分かりませんでした。本妻は喘息と見抜いたようで、近隣で有名な小児救急病院に夜更けに駆け込みました。眠たそうな怖そうな先生がやってきて、本妻に気づき診療態度が変わりました。吸入薬が処方され、入院とはならずにみんなで大学まで移動しました。本妻を送り出し、保育園には休みの電話を入れて、私とユとマでおうちに帰りました。マック食べたい、いいねー。ドライブスルーして、帰ったらみんな37℃後半の熱で、しばらく休みました。
過程は大事と先ほど申しましたが、家庭が大事でした。激しく働きながら、子育ては無理だなあ、でもがんばらないといけないなあ。と考えていたら、フレッシュマン4月に、もうがんばれなくなって長く長く休みました。退職代行を頼む気持ちがわかります、仕事の連絡を取るのが辛かったです。当時、ずーっとゴロゴロしていても何も言われませんでしたが、義母に言わせると、私は嘘つき。大丈夫か?って聞いて、いつも大丈夫ではないのに大丈夫と言っていたからと4年前に激怒されました。嘘というか、助けてほしいとなかなか言えなかったのかもしれないなあ。今は、少し人間らしくなったと思います。
私は、子育てをしないで働いています。自分の体調が一番大事で、その次に大事なことは信念をもって仕事をすることです。目先のことで頭いっぱいにならず、よく勉強して、運動。その結果、家族と華族を大事にするために、タバコは1日3本までにします。
医師バド敗北者が語る 2370字