Tsukemenpapaのブログ

アラフォー別居婚男性の頭の中

思い出の白いたい焼き

娘との思い出は、私の体調によって少々複雑なものになっています。

長女ユは、3歳、次女マが生まれるまでは私の学業のスケジュールに振り回されて育った。海辺の近くでなんとか保育園が見つかって、義母たちの手を借りながら(最初は保育園なんて、という時代錯誤な家だったのは内緒)0歳10か月から滑り込み入園。乳児さんクラスまでは良かったんだけど、幼児さんクラスになってから、私の病院実習が始まって「延長保育」「早朝保育」。環境が激変して長女はお友達を嚙みまくってました。幼児さんクラスになって2週目くらいに、当時の園長先生から「親の愛情が足りないから、お友達を噛みまくるんだと思う」と、延長保育ギリギリに間に合った私に説教。歯を食いしばって、ユにもにこにこで安全運転で帰りました。当時の日記はどこかにあるかもしれません。

その年の途中、次女マが生まれて、ユはさらに困惑していたかもしれません。保育参観や、ピアノのレッスン時に、耳を塞ぐことがありました。当時から、カン、で聴覚過敏から神経症圏を想定していましたが、見守りました。優勝目指して筋トレ・練習オジサンだったからです。

国家試験・卒業までは、自分で育児と勉強とバドミントン優勝を両立してみせる、と強がったのがいま思うと無茶でした。優勝からは程遠い成績、卒業試験は年越しまでオーバータイム。国家試験の勉強は一か月。保育園から帰る旧道沿いの白たい焼き屋でユとマと自転車を止めてモグモグタイム。すごく良い時間だったのですが、国家試験一週間前に、二人を乗せながら自転車を踏ん張れなくて転びました。国家試験はなんとか合格しましたが、すごく長い時間休みました。

長女はスクスクと育ち、次女は時々しか家事をしない私に反抗。次女がすごく癇癪で、距離感が大変でした。

私も手に職を少しだけつけて、大学院生になった時、ユはもう受験期。マと仲良くなって、二人で過ごす時間が増えました。

大学院生、平日は当直をすることが多かったのですが、当直がない火曜日。

水曜日に、7時50分くらいにエントランスにいるとマが大きなランドセルを背負っていて出会えました。一緒に小学校まで歩きました。段々と、高学年になってお友達が増えて、お友達の家までの登校。歩く距離は減りました。どんな話をしたかなあ、全然思い出せないです。ただ、元気?ユは元気?と毎回聞くようにしていたので、ユが元気じゃないときがあることも、察しました。

3歳の歳の差で、受験が落ち着いたらまた受験期が始まって、でもみんなでスポーツセンターで行く時間を作っていました。私は一人っ子だったので、娘二人と遊んで幸せでした。次女が中学に合格して、その夏を最後にみんなでスポーツすることはなくなりました。

色々と思い出して目が腫れたのでまたこんど