2004年春、長かった受験生活が終わり、念願の、近場の医大に通うことになりました。
ただ、元々生真面目な性格。回顧します。
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開成入学当時(24年前)は、出席番号が一番だから、という理由で代表委員、というクラスのリーダーに選ばれました。もう一人、サブリーダーを選ぶのですが、
組員は51人でしたから、折り返しの、26番の子が、選ばれました。
僕とは違って、とっても優秀な、開成の実力試験で1番を何回も取ったことのある彼です。
いい加減な方法で任命をした、日本史のインテリヤクザみたいな先生の眼は、今考えると、鋭かったのかもしれません。
私は一学期は、一番右前の端っこに居ました。左を向いて、クラスをいつも見渡していました。リーダー気取りです。
サブリーダーは、真ん中の列の、後ろの方の席。周囲はかなり賑やかでした。
とにかく、背の高くて、頭の良い奴らが集まっていました。
中1にとって、ジーニアス英和辞典よりも教科書よりも重要な、
Don'tというエロ本を、クラスに買ってきてくれるミスチル狂や、
後にバドミントン部の伝説的部長になる彼や、
後に駿台の東大実践で、偽名で全国一位を取りまくる、倒立して100m走れる彼や、
学年で一番作文力があって巨根で、共にバドミントン部に入部した彼や、
毎年全学年リレーの選手で、一番数学ができる彼。
そんな奴らがサブリーダーの四方に居たので、その様子を眺めているだけで、
頭が良くなって、開成は楽しいな、って思っていました。
ですから、中学一年生は精勤賞でした。(一般的に言う、皆勤賞のことです。)
中学2年になって、クラス替えがあって、もっとキャラが濃いクラスに進級しました。大好きな、そして、停学したときにとても迷惑をかけた地学の先生のクラスです。
尊敬する青くんもいましたが、引き続き、前期まで、代表委員に任命されました。
サブリーダーは、ダブルスのペア、停学意味不明コンビの飛び級です。
当時はまだそれほど仲は良くなくて、ぽっちゃりしていた私に向かって、
「早く相撲部行けよ」「なんだと、開成に相撲部なんてねーだろ」
と、殴り合いのけんかをして、しょっちゅう無視しあい、いがみあっていました。
お袋の作る美味しい弁当の、「おかずだけ見つからないうちに全部食べる」というボケをかまされて、毎日ギャーギャーリアクションしていました。
そんな、ひっちゃかめっちゃかな中二病の、5月。
通学中に、バイクに轢かれて1日だけ休んでしまいました。
6か年精勤の夢が潰えてしまいました。
気持ちを切り替えて、中間試験は、前述の倒立100m走破の彼のグループに入れてもらって、休んだ分のノートを借りたり、貸したりして、一生懸命がりがり勉していました。
試験期間中も、夜の2時まで勉強して、朝4時半に起きて追い込んで、7時に学校に着いてからまた詰め込んで、をしました。
こんなに頑張ったのに、グループの中では一番ビリッけつで、クラス52人中11位でした。
とても悔しくて、期末試験も、おんなじくらい頑張りましたが、15位に落ちました。
その後は、ぱったり生真面目に生きるのを辞めました。
夏休みに、中学の新校舎の小講堂を借りて、2020年5月に流行したクロカワをして、
学年主任の神田正輝先生に見つかって、我々5人は最初の停学(夏休み中の活動停止)になりました。
誓約書:「今後、悪いことをしたら、退学します」を清書しました。
このグループに、飛び級はいませんでした。
因みに、イカサマが得意な彼に、東2局で大三元を振り込みました。序盤に字牌を切ってはいけないことを、覚えました。彼とは仲良しでしたが、いっつも小言を言われてぶつかって、角材なんかで殴られたことがあります。
そんなわけでございまして、2学期の、中間試験までで、代表委員の任期を終えました。
再任はありませんでした。
任期中の最後の仕事は、今でも得意な平謝りでした。
数学の新任教師と、地理のレジェンド骨先生の授業中に、暴れん坊で有名だった彼が、ミカンを投げつけて、激怒させ、教員室に帰られました。
その先生方に、我々停学コンビが走って付いていき、頭を下げました。
それ以降は、社会不適合者、永遠の中二病の誕生です。試験期間中は、飛び級くんと長電話をするのが常でした。お互い、勉強をしないようにするためです。
当然、中学3年生の時は成績は急降下。
バドミントンは4番手。当時飛び級君は最強のクルシマ君と組んでいたので、我々150cm以下コンビでした。博士君は、とてもレシーブがうまい、賢いプレイヤーでした。しかし、身長制限、実力不足のためいつもブロック大会に出られなくて、不貞腐れていました。荒川区民大会も、良くて、ベスト8。
ただ、部内試合のシングルスは、博士君は、いつも格上をなぎ倒してベスト4でした。要するに、私は足を引っ張っていたのです。
一念発起して、飛び級君と次の期末試験で、
「全評点8を超えなかったら、坊主にしよう」
という、今話題の「賭け坊主」を行いました。
ルールは赤点あり、青点あり、ただ、全評点が8を超えれば良い、でした。
所謂、ありありですね。
。。中2病を引きずり、授業中も成長期のためか眠くて眠くて、毎日
阿佐田哲也先生の一番弟子の英語の先生にぶん殴られていましたので、
結果は、二人とも坊主。成績は、中学の間は戻りませんでした。
その年の春、尾瀬の春合宿の最終日の深夜に、飛び級と合宿所を抜け出し、
体育館で深夜~早朝練習をしました。二人とも、負けたくない相手に負けてしまい、
最終日の決勝戦に、勝ち残れませんでした。
小一時間、練習しましたが、春の尾瀬の早朝は、極寒。
マイナス何度になるでしょうか。
突然、我々に眠気が襲ってきました。
「ねむくね?宿戻る?」「いやー用具室に暖房あるでしょ、ソファもあるからちょっと寝ようぜ。」
。。。。ぐうぐうと寝て、顔の痛さで目を覚ましました。
顧問の世界史よーた先生が、鬼の顔で目の前にいました。
「てめえら死にてえのか!!」
合宿所では、2人が居なくなったと大騒ぎで、宿の女将さんは警察に捜索願を出すところだったそうです。
我々は、昼まで宿で正座をして過ごし、昼飯後の、部長総括、優勝者表彰の前に、
「申し訳ありませんでした。退部します。」と、泣きながら謝りました。
どういったわけか、すんなりと、高1の4月から再入部しました。
ただ、飛び級の相方、春の優勝者クルシマくんが、なぜかハンドボール部に転部することになりました。
この後、急にバドが強くなりました。
ギターボーカルで組んでいたバンドは解散して、ドラムとして引き抜かれました。
高校1年の最初の実力テストは、409人中、399番。相変わらずでした。
呼び出されました。「大丈夫か?」
その、1か月後、再び大事件を起こして、停学し、誓約書を書きました。
中学で、「今後、悪いことをしたら、退学します」と誓約していましたが、
あまりにも、馬鹿すぎて、高等教育者の、義務を感じたのか、
制約を跳ね除け、停学し、復学しました。
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冬の体育館は生きていて、それこそ雪山のように凍える寒さでした。雪山には行ったことはありませんが、寒かったです。
体育館が生きていることを伝えたかったのに、冗長になってしまいました。
言いたいことは、字牌とドラは、最後まで切らない方がよい、という話です。
3044文字 ツケメンパパ 拝